2007年5月25日号
◎秀村選三先生の日本学士院恩賜賞受賞にあたって
このたび、秀村選三先生の「幕末期薩摩藩の農業と社会―大隈国高山郷士守屋家をめぐって」に対して、日本学士院から、2007年度の日本学士院賞及び恩賜賞を授与された。
幕末の雄藩である薩摩藩の農村―現在の肝付町高山―の郷士守屋家を中心として、その社会組織の実態に迫った半世紀に及ぶ研究成果である。
秀村選三先生は、昭和61年(1986年)4月1日、久留米大学商学部教授として赴任され、昭和62年から久留米大学比較文化研究所所員に併任、平成5年3月31日退職、平成5年4月1日から平成10年(1998年)3月31日までは、久留米大学客員教授として勤務された。12年間、久留米大学で過ごされた。63歳から75歳まで、12年間を久留米大学で過ごされた。教員休憩室にて、酒席にて先生の謦咳に接した者として、本当に嬉しく思う。
ところが、新聞雑誌テレビは、秀村選三・九大名誉教授として報じ、久留米大学の広報紙や久留米大学のホームページすら、一言も久留米大学に在職されたかたであるとは報じていない。日本学士院は、九大名誉教授としてしか知らなかったためだ。
これは、残念なことである。
何故、報じられなかったのか。私は、秀村教授が12年も久留米大学に勤務されながら、久留米大学名誉教授でなかったからであると思う。
久留米大学商学部か久留米大学比較文化研究所によって名誉教授の称号を差上げるべきであったと思う(今からでも遅くはない)。
久留米大学にかぎらず、多くの大学では、名誉教授の称号授与は、15年以上勤務が条件とする所が多い。
学部長や学長を務めれば、10年程度でも名誉教授の称号を授与出来るが、通常、15年で、概ね、どこの大学でもこれが相場である。
したがって、5年おきに、転々と他の大学にスカウトされる、実力のある教授が、定年の際、どこの大学からも名誉教授としてもらえないということは大いにある。
名誉教授はどうだっていいではないか。また、日本学士院賞が何だ、という意見もあることは知っている。だが、人間、たれも褒められてこそ励まされ、一層学問に精進する。
また、長寿の時代となり、社会的に活動する期間が長くなった。肩書きのない名刺よりも名誉教授という肩書きのある名刺の方が、お互いに便利である。
ともあれ、久留米大学の宣伝のために、秀村選三さんが久留米大学名誉教授であったら、朝日、毎日、読賣、西日本の各紙が九大だけでなく久留米大にも在職されたことを報じ、学生、教員、職員は改めて久留米大学を誇りに思ったことであろう、と思う。
なお、久留米大学教員有志により、秀村選三先生を囲む「日本学士院恩賜賞受賞を祝う会」を計画中である。
小学校(当時、国民学校といった)の4年生、5年生、6年生を大分中津市立南部国民学校で過ごしたこともあって、福澤諭吉に関心を持っている。
私が、南部国民学校5年生の時に、日本は大東亜戦争に敗北した。
中津城の近所の公園に「独立自尊」の碑があったが、戦争中は取り壊されたか、あまり大事にされていなかった。
戦後、福澤諭吉は、中津市の大きな財産になり、福澤の出身地ということで、中津人は鼻が高い。
私も福澤諭吉は偉いと思う。尊敬するに値する。要約すると次の点だろうか。
1,天は、人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり、といって、封建時代と異なり、 武士も町人も、農民も「平等」だといった。
2,この世の中では、お金が大事であるといった。江戸時代の武士階級が金銭を卑しんだことを批判し、経済を重視した。そのため、拝金宗の教祖と批判されたが。
3,当時の朝鮮、支那は、友として、あるいは、団結して、西欧に対抗するには、とても頼りに為らず、結局、西欧のグループに入った方がよい、といった。脱亜入欧である。
4,明治政府から誘われても、役人にならず、慶応義塾を作り、独立の民間人として、また、教育者、評論家として一貫した。
5,同時代人には珍しく、私生活において、独身時代からずっと、清潔で、また女性を対等に扱った。
6,日本人に分かりやすい文章を書くように努力し、実現した。
7,西洋思想、西洋文明を日本人に紹介し、適切な訳語を探して、造語した。
8,皇室を大事にし、日本を世界の中の誇りある独立国とするべく、批判もしたが、概ね、明治政府を応援した。
最近、福澤諭吉を扱った2つの本を読んだ。
礫川全次「知られざる福澤諭吉―下級武士から成り上がった男」平凡社新書・2006年11月が出た。福澤を批判的に見ようとして、書かれており、これまでにない視点がよい。
福澤の品格を問題にし、3回目の洋行の際、非違の行為があり、謹慎を命ぜられていることなどを問題にしている。しかし、これが、事実としても、大したことではない、と思った。
もう一つは、北康利「福澤諭吉―国を支えて国に頼らず」講談社・2007年3月。
これもよく調べられたいい本である。
著者は、兵庫県の三田藩に詳しく、「男爵九鬼隆一―明治のドン・ジュアンたち」の著書もある。当然、九鬼隆一と福澤の関係がどのように書かれるか。期待して、読み始めた。
福澤は、福澤山脈といわれるように大勢の弟子を育て、大実業家などを多く輩出した。だが、福澤から破門された、九鬼隆一という文部官僚に触れた本は少い。九鬼はのち男爵、枢密顧問官となるが、松方内閣組閣の際、文部大臣候補の筆頭に挙げられるが、慶応関係者が反対し、流れたという。九鬼との関係で、福澤は、温厚篤実という顔を見せない。そこには、感情的な激情家としての福澤がある。
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