・呉藤加代子「大分県大山町 パスポート所持全国一山村を劇的に変えた“考える農業”」
立地条件や気候などの環境に恵まれず、戦後まもないころには、大分県の中でも最も貧しい農村とされていた大山町が、“少量生産、多品目栽培、価値販売”を旗印とした町の農業方針の大転換の下で、町民自らが“考える農業”をすすめてきた。(町民の海外研修、町内でのノウハウの共有化、生産者が自ら農作物の加工や販売事業に携わる)その結果、現在の大山町は、全国でも有数の裕福な町として知られることとなる。その成功は、全国の市町村からの役人が視察にくるほどである。
本レポートは、この大山町の成功について、その具体的経緯を取材、紹介したものである。
このレポートが訴えるのは、貧しい農村も、悪条件の下であっても、自身が考え動く取り組みによって、生まれ変わることも出来たのだ、という可能性である。
現在、日本では、重労働を伴う農作物の生産過程や、天候に左右される出来高の不安定、等々から、若者の農業離れは深刻であり、現農家を取り巻く現状は厳しい。農村の過疎化が進行しているところも少なくない。
また、国民の食料の安全性に対する意識は高まっており、有機野菜や地場野菜などを求める消費者は増え、農家に対する新たな需要も増えている。また、食料自給率の問題からいっても、農業への就労人口を確保することは重大である。
安定した収入といった面で成功をおさめている大山町でも、農業を継ぐ若者の就労を維持することは現在抱えている問題であると本レポートでも指摘されているが、収入が不安定で労働条件の厳しい農業のイメージが変化すれば、農業に就業してみようとする若者も増えるのではないだろうか。大山町の取り組みは、そのような意味において、またパスポートの所持率が示している、町民自身が海外に目を向け、進歩し続ける「開かれた農村」イメージという面でも、若者を農業に惹きつけるモデルを一つ提供しているように思う。
・中村邦夫、片山修、竹中平蔵「“人材革命”でモノづくり立国をめざせ」
本てい談では、日本人の理数離れが深刻化し、技術立国としての日本の存在が危うくなっていることについて、中村邦夫氏(松下電器産業株式会社代表取締役会長)、片山修氏(経済ジャーナリスト)、竹中平蔵氏(経済学者)の三氏が議論を行なっている。理数離れをおこしている一つの要因として、理系は文系に比べて生涯賃金が低いことが指摘される。また理数離れは、小学校の4年生頃からすでに始まっていることが指摘され、対策として、子どもたちに知的教育の機会を提供する必要があると議論される。企業のこの問題への取り組みとして、例えば松下電器では、理数に親しむことを目的とした子どものためのミュージアムを作っているという。
今年3月末に改定された「新しい学習指導要領」を受け、移行措置として来年度からの小中学校での理数科目の授業数が増えることが先月24日公表された。この理数科目の増加について、文部科学省は、「学術研究や科学技術の世界的な競争が激化するなどの変化の中で、国際的な通用性や内容の系統性などを踏まえた指導内容の見直しを行うため」と、世界の科学技術における競争に日本が勝ち残っていくためと説明し、日本人の理数離れに危機感をもっている。(同省ホームページ)
本てい談において、中村氏が次に述べた発言が印象に残った。「中国では、毎年約五五〇万人が大学を卒業しますが、そのうちの過半数が理工系です。つまり、海を隔てた隣国に巨大な理数大国が存在することになる」、「対策は、日本の理数人材を増やすこと、もう一つは、海外から理数人材を呼び寄せること」。このように、企業は、日本人の理数離れによって海外の若者の獲得を視野に入れている。日本では、職業に就くことができない若者がいることが問題とされる中で、職を日本に求める外国籍の労働者と日本の労働者の職業獲得の競争が目に見えて起り始めているのだと実感した。
・小池洋次「負のグローバル化に警鐘を鳴らす」
本レポートは、麻薬の密輸や人身売買といった非合法貿易のグローバル化の問題の重要性を犯罪の最前線における取材を通し、現状を訴えてきた人物、モイセス・ナイム氏(アメリカの外交誌、『フォーリン・ポリシー』編集長)についての紹介である。以下、小池氏のレポートを要約する。
「負のグローバリゼーション」についてのナイム氏の基本認識は、「九〇年代以降の技術革新によるグローバリゼーションで非合法貿易が多大な利益を享受し、取り締まる側は国家の制約から後手に回っている」ことである。
ナイム氏は、「新聞を読むときも本を読むときも人々と話すときも、世界がいかに変わってきているかをいつも考えています」と常に世界情勢について考えることが日常としている。「負のグローバリゼーション」についての論文を執筆したきっかけは、氏が世界各地で出会った「非合法」な偽ブランドバッグが特定地域のアフリカ人によって販売されている、というよく似たケースに気が付いたからである。
『フォーリン・ポリシー』は、最初のグローバルシンクタンクであるカーネギー財団によって発効されている。編集長に就任してからナイム氏が目標にしたのは、「専門家には必読で、多くの人々が読みたいと思う雑誌」をつくることであった。そして、その結果、同誌は多くの賞を受け、発行部数も伸ばした。
ナイム氏が、筆者に最終目標をわれた際、次のように述べているのが印象に残った。「私の仕事は世界で最高だと思います。ベネズエラの閣僚と同様、重要な仕事であって、それでいて、はるかに楽しいのです。世界中のとても面白い人々や世界の最高の思想家と話すことができ、彼らのストーリーや理論やアイデアを読者に紹介できるのです。非常に特権的な立場ではないでしょうか」。
・篠原令、石川好「日中関係に必要な『友を選ばば中国人』の視点」
日中関係の不安定さの根底にあるものについて、本対談で、篠原令氏(国際コンサルタント)、石川好氏(ノンフィクション作家)が議論している。篠原氏や石川氏が日中関係の不安定さを生み出しているものとして指摘するのは、二つの大きな要因である。一つ目は、江沢民が総書記についてからの中国の「愛国主義教育」、二つ目は、日中間に文化的憧れなど大衆的な感情の入り口がないこと、である。対談では、現在の不安定な日中関係が、将来良好な関係となるために、具体的な対策として日本人と中国人の個人的な信頼関係の構築が重要だとされる。例えば、石川氏は、「時間をかけてお互いに知日派・知中派の人材を育成するしかない」とし、両国の青少年の交流等をあげる。
本対談で特に印象に残ったのは、日本のマスコミ報道が問題だとする議論である。対談では、2005年に中国で起きた反日デモに対して報道したほとんどのマスコミがデモの背景に中国政府のやらせを指摘していたことを例に、日本のマスコミの中国報道の問題性が指摘されていることだ。確かに、国民の対外国感情の形成において、マスコミ報道は大きな影響をもつと考えられる。しかし、石川氏や篠原氏が指摘するように、2005年の反日デモの報道でのマスコミの報道が誤まった解釈であったにせよ、日本人の中国イメージに悪影響を及ぼしているのは、まず中国人の過激なデモ自体ではないだろうか。デモを否定するわけではない。ここでは、消えることがない事実や、終ることのないだろう歴史認識や戦争責任についての議論はおいておく。日中間の国民感情をよりよいものとして築いていこうとしたときに、日本での一時的なマスコミ報道よりも、石川氏や篠原氏が初めに指摘しているように、中国の愛国主義教育は深く重く横たわっているように思える。幼少期から受けた教育は、現在の日本人とのどれほどの交流で、信頼関係が構築されるのだろうか。おそらく少なくない年月を要し、日本人との接触も必要とするだろう。そして、日本人と接する機会をもつ中国人は、膨大な中国の人口の中でどれほどの割り合いを占めているのだろうか?決して多くはないように思うのである。
・ビル・エモット「会社は誰のものか」
(要約)本稿では、「株主は、本当に会社資産の一部を持つ、究極的な所有者だといえるのだろうか」、という主題について、日本、アメリカ、イギリスにおける企業と株主の関係について論考している。以下、著者の主張を要約したい。
日本の経済産業省高官の北畑隆夫氏は、株主は「無責任で貪欲」であるため、企業は自身の株主を選択する権利があるとする。アメリカでは、取締役会の義務は、株主に対する責任として厳密に明確化される。イギリスでは、企業は株主を平等に扱い、企業の重要事項に対する投票権を保護しつつ、企業の社会責任を特に重視する。
以上三つの選択肢のうち、どれが正しいとは言えない。なぜならば、各国固有の文化の相違があり「企業は複雑な集合体であり、さらに企業の、資本家、従業員、顧客、政府との友好関係やニーズは、この企業が置かれている、その時々の状況に、すべて左右される」からである。
日本での株主の役割は、企業がどれほど資本を必要としているかで、変わる。資本を必要としない時期には、株主が配当を多く求めたり、経営に影響を与えることを防止するため、企業は株主と一線を画す。左記の問題を考えると、経営者の規律づけが重要である。アメリカでは、主に競合相手から規律が強いられ、株主がTOB(株式公開買い付け)を受け入れ、経営陣を罷免させることも出来る。イギリスでは、TOBと法律や慣習により、規律を強いることができる。日本では、株主が「無責任で貪欲」だとのイメージは、アメリカの状況を反映している。しかし、日本は、イギリス流の選択肢を選択することもできる。
・山内昌之「時代の風を読む」
本稿では、独特の運営観をもち、世界においてその存在感を増しつつあるイスラーム世界の金融について、論考している。
イスラーム世界の銀行は、貸付にあたって利子や利息をとることが厳禁されている。なぜならば、イスラーム法において、利子や利息を得ることは不労所得で人間の倫理に反し、弱者の搾取につながると見なされているためである。そこで、イスラーム世界の銀行は、実際の生産活動などに投資し、預金を資金として運用することで批判をかわしている。銀行の利益は、投資先の収益で増減し、損失も覚悟で運用することによって、銀行は、「独特な公正・平等観をもつ倫理観を基礎として成立」している。
また、イスラーム金融が脚光を浴びているのは、巨額のオイルダラーに関連する。イスラーム金融機関が管理する資産額は、原油価格高騰により、世界経済で最も急速に拡大を遂げ、イスラーム金融からの投資をどの国も期待している。日本にとってイスラーム金融は、金融の市場や取引の多様性を促すため重要であり、また「アメリカン・スタンダードだけで動きがちな資本主義のグローバリゼーションにイスラームの論理も入ってくると、二十一世紀の歴史に文明論的な深みを与えることもできる」
以上が本エッセイの要約である。
上記引用部分で、著者は、独特な公正、平等観をもつイスラームの論理が、アメリカン・スタンダードで動きがちな資本主義のグローバリゼーションに入ってくると、「二十一世紀の歴史に文明論的な深みを与えることもできる」と述べている。ここで著者は、イスラーム世界の論理が、弱肉強食的な資本主義の流れの一つの歯止めとなる可能性がある、と示唆しているのだろうか。
また、格差問題など、新自由主義の悪害についての議論に、資本主義の新たな具体的方向として、イスラーム世界の銀行の論理は、考察しうるモデルとなりうるのではないか?と思う。
(間戸安奈)
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