鳥居民『近衛文麿『黙』して死す すりかえられた戦争責任』草思社、2007年。

本書は、日米開戦前後に内大臣を務めていた木戸幸一が、日米開戦についての自身への責任追及を逃れるために、彼が考え出した開戦に至った経緯を語ることで開戦責任を己から近衛文麿になすりつけ、近衛を自決においやることとなった、という経緯が明らかにされ、日米開戦までに政府内で何が起こっていたのか、という真の経緯を明らかにしようとしたものである。本書では、木戸によって作られ、ハーバート・ノーマンによって受け入れられた、日本がアメリカとの戦争を決定した経緯についての認識は、先行研究の定説となっていることが強く批判される。筆者は、この木戸が考え出した歴史を、「木戸・ノーマン史観」と呼んでいる。「木戸・ノーマン史観」とは、具体的に次のようなものである。

 「海軍はアメリカと戦えと説いていたのだと考える単純な解釈、昭和十六年九月六日の御前会議において、首相近衛文麿、海軍首脳、外務大臣が望んでいた真意を見極めようとしない姿勢、そして内大臣の木戸幸一に許されていた手段と選択の幅を考え直してみようとせず、内大臣が政府と統帥部のすべての望みを無視して、かれが直面しながら解決しなかった重大な過ちを顧みないできた自己欺瞞的な態度」(p6l4)

現在の日米開戦についての定説では、日本は194196日の御前会議の決定、そしてこの会議において定められた「帝国国策遂行要領」で日米開戦への日程表が組まれたとされるが、これこそが木戸によって歪曲された史観であるという。木戸は、194196日の御前会議が戦争会議であったとノーマンに伝え、主催し指導したのが近衛である、とした。しかし、実際の96日の御前会議は、戦争会議とはいえないものであり、首相、外相、海相らは、日本が中国から撤兵するという日本の譲歩をアメリカに告げ、日米開戦を回避したいと願っており、アメリカとの交渉に見込みがなければ、それから開戦準備をおこなう、と決定された、とする。

近衛は日米開戦を避けようと努力していたが、陸軍はアメリカとの戦争を望みはしないが、陸軍大臣は中国から撤兵することに納得せず、また海軍大臣は、海軍の士気をくじくことや、陸軍に中国からの撤兵をさせることで、中国での戦争に勝利を収められなかった責任を陸軍が海軍へ責任転嫁するのではないかと危惧し、日米開戦を避けたいとはっきりと明言出来ずにいた、とする。このような陸軍、海軍の事情を承知し、天皇に対し助言する立場にありながら、日米開戦を避けようと動かなかったのが、木戸であったのだ、とする。木戸は、陸軍の中国撤兵による陸軍内の人事によって引き起こされる自身の政治生命に対する危惧より、天皇に働きかけることをしなかった。木戸の助言によって、天皇に陸軍への説得を求めていたならば、日米開戦へとつながることもなかったのである。以上が、鳥居氏が本書で述べている主張である。

 本書では、木戸幸一の不作為の罪が強調され、影響力があまりないと考えられていた内大臣の影響力が重視されるなど、当時の政治制度、政治過程の研究に多くの示唆を与えているように思う。また、日米開戦に対する先の戦争についての研究は多く行なわれていると思うが、資料の制約がどうしてもあるのが現状であろう。鳥居民氏の議論は、資料に多くよりながらも、資料がないことで推察も多く、裏づけが乏しいように感じさせ、新たな定説を提示しているとはまだいえないように思う。しかし、鳥居氏の、資料の裏を読むという、大胆でしかし無理がない推論は、資料偏重の歴史研究に新たな刺激を与えているのではないか、と思う。

(間戸安奈)

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『潮』(2008年5月号)

・呉藤加代子「大分県大山町 パスポート所持全国一山村を劇的に変えた“考える農業”」

立地条件や気候などの環境に恵まれず、戦後まもないころには、大分県の中でも最も貧しい農村とされていた大山町が、“少量生産、多品目栽培、価値販売”を旗印とした町の農業方針の大転換の下で、町民自らが“考える農業”をすすめてきた。(町民の海外研修、町内でのノウハウの共有化、生産者が自ら農作物の加工や販売事業に携わる)その結果、現在の大山町は、全国でも有数の裕福な町として知られることとなる。その成功は、全国の市町村からの役人が視察にくるほどである。

本レポートは、この大山町の成功について、その具体的経緯を取材、紹介したものである。

このレポートが訴えるのは、貧しい農村も、悪条件の下であっても、自身が考え動く取り組みによって、生まれ変わることも出来たのだ、という可能性である。

現在、日本では、重労働を伴う農作物の生産過程や、天候に左右される出来高の不安定、等々から、若者の農業離れは深刻であり、現農家を取り巻く現状は厳しい。農村の過疎化が進行しているところも少なくない。

また、国民の食料の安全性に対する意識は高まっており、有機野菜や地場野菜などを求める消費者は増え、農家に対する新たな需要も増えている。また、食料自給率の問題からいっても、農業への就労人口を確保することは重大である。

安定した収入といった面で成功をおさめている大山町でも、農業を継ぐ若者の就労を維持することは現在抱えている問題であると本レポートでも指摘されているが、収入が不安定で労働条件の厳しい農業のイメージが変化すれば、農業に就業してみようとする若者も増えるのではないだろうか。大山町の取り組みは、そのような意味において、またパスポートの所持率が示している、町民自身が海外に目を向け、進歩し続ける「開かれた農村」イメージという面でも、若者を農業に惹きつけるモデルを一つ提供しているように思う。

・中村邦夫、片山修、竹中平蔵「“人材革命”でモノづくり立国をめざせ」

本てい談では、日本人の理数離れが深刻化し、技術立国としての日本の存在が危うくなっていることについて、中村邦夫氏(松下電器産業株式会社代表取締役会長)、片山修氏(経済ジャーナリスト)、竹中平蔵氏(経済学者)の三氏が議論を行なっている。理数離れをおこしている一つの要因として、理系は文系に比べて生涯賃金が低いことが指摘される。また理数離れは、小学校の4年生頃からすでに始まっていることが指摘され、対策として、子どもたちに知的教育の機会を提供する必要があると議論される。企業のこの問題への取り組みとして、例えば松下電器では、理数に親しむことを目的とした子どものためのミュージアムを作っているという。

今年3月末に改定された「新しい学習指導要領」を受け、移行措置として来年度からの小中学校での理数科目の授業数が増えることが先月24日公表された。この理数科目の増加について、文部科学省は、「学術研究や科学技術の世界的な競争が激化するなどの変化の中で、国際的な通用性や内容の系統性などを踏まえた指導内容の見直しを行うため」と、世界の科学技術における競争に日本が勝ち残っていくためと説明し、日本人の理数離れに危機感をもっている。(同省ホームページ)

 本てい談において、中村氏が次に述べた発言が印象に残った。「中国では、毎年約五五〇万人が大学を卒業しますが、そのうちの過半数が理工系です。つまり、海を隔てた隣国に巨大な理数大国が存在することになる」、「対策は、日本の理数人材を増やすこと、もう一つは、海外から理数人材を呼び寄せること」。このように、企業は、日本人の理数離れによって海外の若者の獲得を視野に入れている。日本では、職業に就くことができない若者がいることが問題とされる中で、職を日本に求める外国籍の労働者と日本の労働者の職業獲得の競争が目に見えて起り始めているのだと実感した。

・小池洋次「負のグローバル化に警鐘を鳴らす」

 本レポートは、麻薬の密輸や人身売買といった非合法貿易のグローバル化の問題の重要性を犯罪の最前線における取材を通し、現状を訴えてきた人物、モイセス・ナイム氏(アメリカの外交誌、『フォーリン・ポリシー』編集長)についての紹介である。以下、小池氏のレポートを要約する。

「負のグローバリゼーション」についてのナイム氏の基本認識は、「九〇年代以降の技術革新によるグローバリゼーションで非合法貿易が多大な利益を享受し、取り締まる側は国家の制約から後手に回っている」ことである。

ナイム氏は、「新聞を読むときも本を読むときも人々と話すときも、世界がいかに変わってきているかをいつも考えています」と常に世界情勢について考えることが日常としている。「負のグローバリゼーション」についての論文を執筆したきっかけは、氏が世界各地で出会った「非合法」な偽ブランドバッグが特定地域のアフリカ人によって販売されている、というよく似たケースに気が付いたからである。

『フォーリン・ポリシー』は、最初のグローバルシンクタンクであるカーネギー財団によって発効されている。編集長に就任してからナイム氏が目標にしたのは、「専門家には必読で、多くの人々が読みたいと思う雑誌」をつくることであった。そして、その結果、同誌は多くの賞を受け、発行部数も伸ばした。

ナイム氏が、筆者に最終目標をわれた際、次のように述べているのが印象に残った。「私の仕事は世界で最高だと思います。ベネズエラの閣僚と同様、重要な仕事であって、それでいて、はるかに楽しいのです。世界中のとても面白い人々や世界の最高の思想家と話すことができ、彼らのストーリーや理論やアイデアを読者に紹介できるのです。非常に特権的な立場ではないでしょうか」。

・篠原令、石川好「日中関係に必要な『友を選ばば中国人』の視点」

日中関係の不安定さの根底にあるものについて、本対談で、篠原令氏(国際コンサルタント)、石川好氏(ノンフィクション作家)が議論している。篠原氏や石川氏が日中関係の不安定さを生み出しているものとして指摘するのは、二つの大きな要因である。一つ目は、江沢民が総書記についてからの中国の「愛国主義教育」、二つ目は、日中間に文化的憧れなど大衆的な感情の入り口がないこと、である。対談では、現在の不安定な日中関係が、将来良好な関係となるために、具体的な対策として日本人と中国人の個人的な信頼関係の構築が重要だとされる。例えば、石川氏は、「時間をかけてお互いに知日派・知中派の人材を育成するしかない」とし、両国の青少年の交流等をあげる。

本対談で特に印象に残ったのは、日本のマスコミ報道が問題だとする議論である。対談では、2005年に中国で起きた反日デモに対して報道したほとんどのマスコミがデモの背景に中国政府のやらせを指摘していたことを例に、日本のマスコミの中国報道の問題性が指摘されていることだ。確かに、国民の対外国感情の形成において、マスコミ報道は大きな影響をもつと考えられる。しかし、石川氏や篠原氏が指摘するように、2005年の反日デモの報道でのマスコミの報道が誤まった解釈であったにせよ、日本人の中国イメージに悪影響を及ぼしているのは、まず中国人の過激なデモ自体ではないだろうか。デモを否定するわけではない。ここでは、消えることがない事実や、終ることのないだろう歴史認識や戦争責任についての議論はおいておく。日中間の国民感情をよりよいものとして築いていこうとしたときに、日本での一時的なマスコミ報道よりも、石川氏や篠原氏が初めに指摘しているように、中国の愛国主義教育は深く重く横たわっているように思える。幼少期から受けた教育は、現在の日本人とのどれほどの交流で、信頼関係が構築されるのだろうか。おそらく少なくない年月を要し、日本人との接触も必要とするだろう。そして、日本人と接する機会をもつ中国人は、膨大な中国の人口の中でどれほどの割り合いを占めているのだろうか?決して多くはないように思うのである。

・ビル・エモット「会社は誰のものか」

(要約)本稿では、「株主は、本当に会社資産の一部を持つ、究極的な所有者だといえるのだろうか」、という主題について、日本、アメリカ、イギリスにおける企業と株主の関係について論考している。以下、著者の主張を要約したい。  

日本の経済産業省高官の北畑隆夫氏は、株主は「無責任で貪欲」であるため、企業は自身の株主を選択する権利があるとする。アメリカでは、取締役会の義務は、株主に対する責任として厳密に明確化される。イギリスでは、企業は株主を平等に扱い、企業の重要事項に対する投票権を保護しつつ、企業の社会責任を特に重視する。

以上三つの選択肢のうち、どれが正しいとは言えない。なぜならば、各国固有の文化の相違があり「企業は複雑な集合体であり、さらに企業の、資本家、従業員、顧客、政府との友好関係やニーズは、この企業が置かれている、その時々の状況に、すべて左右される」からである。

 日本での株主の役割は、企業がどれほど資本を必要としているかで、変わる。資本を必要としない時期には、株主が配当を多く求めたり、経営に影響を与えることを防止するため、企業は株主と一線を画す。左記の問題を考えると、経営者の規律づけが重要である。アメリカでは、主に競合相手から規律が強いられ、株主がTOB(株式公開買い付け)を受け入れ、経営陣を罷免させることも出来る。イギリスでは、TOBと法律や慣習により、規律を強いることができる。日本では、株主が「無責任で貪欲」だとのイメージは、アメリカの状況を反映している。しかし、日本は、イギリス流の選択肢を選択することもできる。

・山内昌之「時代の風を読む」

 本稿では、独特の運営観をもち、世界においてその存在感を増しつつあるイスラーム世界の金融について、論考している。

イスラーム世界の銀行は、貸付にあたって利子や利息をとることが厳禁されている。なぜならば、イスラーム法において、利子や利息を得ることは不労所得で人間の倫理に反し、弱者の搾取につながると見なされているためである。そこで、イスラーム世界の銀行は、実際の生産活動などに投資し、預金を資金として運用することで批判をかわしている。銀行の利益は、投資先の収益で増減し、損失も覚悟で運用することによって、銀行は、「独特な公正・平等観をもつ倫理観を基礎として成立」している。

また、イスラーム金融が脚光を浴びているのは、巨額のオイルダラーに関連する。イスラーム金融機関が管理する資産額は、原油価格高騰により、世界経済で最も急速に拡大を遂げ、イスラーム金融からの投資をどの国も期待している。日本にとってイスラーム金融は、金融の市場や取引の多様性を促すため重要であり、また「アメリカン・スタンダードだけで動きがちな資本主義のグローバリゼーションにイスラームの論理も入ってくると、二十一世紀の歴史に文明論的な深みを与えることもできる」

以上が本エッセイの要約である。

上記引用部分で、著者は、独特な公正、平等観をもつイスラームの論理が、アメリカン・スタンダードで動きがちな資本主義のグローバリゼーションに入ってくると、「二十一世紀の歴史に文明論的な深みを与えることもできる」と述べている。ここで著者は、イスラーム世界の論理が、弱肉強食的な資本主義の流れの一つの歯止めとなる可能性がある、と示唆しているのだろうか。

また、格差問題など、新自由主義の悪害についての議論に、資本主義の新たな具体的方向として、イスラーム世界の銀行の論理は、考察しうるモデルとなりうるのではないか?と思う。

(間戸安奈)

**感想文について何かお気づきの点がありましたらご連絡下さい

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鳥居民『原爆を投下するまで日本を降伏させるな トルーマンとバーンズの陰謀』草思社、2005年。

要約

なぜ、アメリカは日本に原爆を投下したのか。

戦後、トルーマンやスティムソンが説明した理由は次の2つである。①「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下した」②「鈴木貫太郎が『ポツダム宣言』を無視するといった意味合いで、宣言を『黙殺』すると語った」。

それでは、先行研究ではアメリカの原爆投下に対してどのように説明されているのか。先行研究では、これらトルーマンやスティムソンが戦後に述べた説明をそのまま用い、「憶測や想像を叙述するだけ」となっている。というのは、トルーマンらの説明をそのまま受取ることに次の二点において矛盾があるからである。

①「原爆を投下する前の四ヶ月のあいだ、日本本土上陸作戦で予想される犠牲者の数に懸念を表明する陸軍軍人はいなかった。(中略)アメリカの軍首脳がだれひとり論じることもなければ、考えもしなかった百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後になってから」(p8)

②「トルーマンとかれの協力者のバーンズがポツダム宣言を公表するにあたって、日本が降伏しないように入念な細工をほどこし、陸軍長官のスティムソンの原案から天皇の地位保全の条項を削ってしまったという事実である。さらに、日本側をしてその宣言が正式の外交文書だと思わせないようにつくり、最終通告だという認識を持たせないように最新の注意を払い、日本側が間違いなく黙殺するように仕組んだ」(〃)

よって、本書では次の仮説をたて論証していく。

「アメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズの二人は、原爆の威力を実証するために手持ちの二発の原爆を日本の二つの都市に投下し終えるまで日本を降伏させなかった」(p7)

以下、本書では、ルーズヴェルトの死によって突然大統領となったトルーマンが、原爆の開発という莫大な予算をかけた遺産を引き継ぎ、自らの威信を高めるため原爆投下を準備していたことが描かれる。

コメント(批判点と意義)

本書は、「だったろう」「なはずである」等の記述が多く、史料の裏づけが少し乏しいように思える。ただこれは、著者も次に書いているように、史料が公開されていないからである。

「トルーマンが新大統領となり、国務長官のバーンズがかれの新たな協力者となって、日本の二つの都市に二発の原爆を投下するまでの四ヶ月足らずのあいだ、この二人のあいだの論議はなにひとつ明らかにされることなく、二人が決めたことはなにも文字として残されていない。そこで私の主張のある部分は推測を繋げることにならざるをえない。」(p7)

しかし、本書は非常に説得的な論を展開している。それは、トルーマンがソ連の日本参戦の期日を非常に気にしていた、グルーやスティムソンが日本を降伏させるため行なう提言にトルーマンが曖昧な態度を取っていた、等、戦後トルーマンが述べた説明から矛盾する事実や、彼を取り巻いていた状況が非常にシンプルに描かれているからであるように思う。

よって、トルーマンは自ら立てた原爆投下までに踏まねばならない予定表(ソ連の日本への参戦、アメリカが日本に対し降伏を求める宣言を出す期日等)をたてており、それが狂わぬよう入念に操作していた、という説明が、トルーマンとバーンズが、実際何を議論し、何を思っていたのか、などの史料がなくとも、アメリカが日本に原爆投下をしたのはなぜか、という問いに対し納得できる回答を提示しているように考える。

*人物説明*

鳥居民氏

1929年、東京生まれ、横浜に育つ。日本および中国金現代史研究家。夥しい資料を渉猟し、徹底した調査、考察をもとに独自の史観を展開。」

(本書、作者のプロフィールより引用)

ハリー・トルーマン(1884-1972)

1945年4月12日、第33代アメリカ大統領に就任。ルーズベルト大統領の死で、大統領に昇格する。日本への原爆投下を決定。

ジェームズ・バーンズ(1879-1972)

1945年7月3日~1947年1月21日まで、トルーマン政権下において国務長官を務める。

ヘンリー・スティムソン(1867-1950)

国務長官、陸軍長官を務める。本書での時期には、陸軍長官。

ジョゼフ・グルー(1880-1965)

1932年6月~1942年6月、駐日アメリカ大使を務める。1944年5月、アメリカ国務省極東問題局長就任。

以上、本書中の解説とともに、以下の文献を参照した。

外務省外交資料館日本外交史辞典編纂委員会『新版日本外交史辞典』山川出版社、1992年。

(間戸安奈3)

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『中央公論』2008年3月号、4月号

1、はじめに

以下では、『中央公論』2008年3月号4月号で取り上げられた特集や論文の内容に関し、特に印象を持ったものについて感想を述べたいと思う 。

2、論文への感想

ア「厚生労働省という犯罪」(3月号)

「厚生労働省という犯罪」という特集について、編集者の方によって以下のような強く重たい批判で特集が紹介され、この特集に特に力を入れているように思われた。

「年金は制度破綻。記録・管理さえもできない。

薬害を頻発させ、医師不足で今や子どもも産めない。

受け皿を奪われた高齢者は介護難民と化した・・・・。

これを犯罪と言わず何というのか」

特集の執筆者は、堺屋太一氏、岡光序治氏、村上正泰氏、川田龍平氏、水野肇氏といった、官僚組織に属していた三人の論者、そして政治家と評論家で構成され、実際に働き所属する者や厚生省内部に近い場にいる論者により、省内内部で抱える問題が暴露され、具体的改革の方向性が提示されている。

厚生労働省が起こす度重なる事件の原因として、川田氏は、薬害問題について、官僚・製薬会社・学者の癒着体質の構造をあげ、堺屋氏は、「官僚共同体」の形成、水野氏は、複合的な原因があるとしながら特に社会保険庁に有能な人材がいないことを大きく取り上げている。このように、各論文で重大な問題として取り上げられているのは、現在官僚職に就いている者の国民のために働くという意識の低さであること、であった。

堺屋氏が、公務員の制度改革と同様に、「国民の気持ち」を変えなければならないとして、次のように述べていることに非常に感銘を受けた。

「まず、官僚に頼るという気持を捨てることです。冒頭に申し上げましたが、『日本の官僚は偉い』というのは間違いです。今の官僚機構は決して良質ではありません。したがって、この人たちは頼りにならないという感覚を持たなければいけません。自分たちの力で国をつくるのです。」

本書の特集で内部の事情を詳細に知っている方々の論文で、厚生労働省や社会保険庁の実態や、現在の官僚組織が抱える問題が暴露されている。

それと欲を言えば、厚生労働省の「犯罪」について所管官庁内部の改革の方向を提示するものと、他に市民が何を期待しているかとのインパクトある論者の声も同様に取り上げてるとより一層よかったと思う。というのは、厚生労働省や社会保険庁について一般の市民は批判的になり不信感は募っているとは思うが、今現在年金や薬害問題について実際に身に降りかかっていると実感する人は意外と少ないと思うからだ。実際に私の周りでは自らの生活を考える場合と官僚組織の問題が乖離しているように感じる

イ「いま隣にある貧困」(4月号)

今現在日本が抱えている大きな問題として、格差やさらに貧困の問題がある。

近年格差は急激に拡大したとされており、4月号では、様々な視点からこれら問題を取り上げている。 自らの経験と貧困者の実態を知り尽くした雨宮処凛氏、日本の現在の社会構造について佐藤優氏、ネットカフェで暮す人々を取材し、貧困者の実態に詳しい水島宏明氏、福祉政策について岩田正美氏、行政の対応について葉上太郎氏、法律の問題について北健一氏、高学歴者の貧困について水島明氏の論文がある。

貧困問題で各論者が訴えるのは、雨宮氏の次の言葉に集約されるだろう。

「格差の最底辺に膨大な『貧困層』がいて、命すら脅かされていることに問題があるのです。彼らは食うや食わずの存在で、そちらのセーフティーネットは何もないままに放り出されている。それは、絶対的に救済しなくちゃいけないことなんじゃないですか」。

各論者によって貧困者の現在おかれている悲惨な生活の状況が明らかにされ、緊急な解決が主張されている。そして、論者達が強調するのは、貧困が派遣や請負など非正規雇用といった「働き方」や、家庭が貧困であるとその子どもも貧困から抜け出せない、といった形で貧困が生み出されていることから、「自己責任」ではない、ということである。

しかし、水島氏は、この問題に解消すべく支援すべき行政は機能しておらず、実態調査もままならないと述べ、葉上氏は、最低限のセーフティネットである生活保護にも見捨てられるのが現状だと論じている。また、岩田氏は、福祉政策のモデルが現在の「働き方」と家族の変化に追いついていないとする。 また、佐藤氏は次のように述べる。

「『貧困』という形で、ある一定層が固定するところまでいってしまうと、同じ国を生きる仲間としての同胞意識がなくなってしまう。そういう国家は崩壊すると僕は思います。」

このように、急激に広がっていく格差や貧困は、国家を崩壊に導くと警告する。

佐藤氏は、カール・ポランニーの『人間の経済』を引いて、資本主義経済導入後のソ連に起きた極度のインフレをロシアが現在の状態まで克服できたのは、ロシア人に一般市民と資本家が互に協力しあう相互扶助の精神があったからだとする。それに対し社会主義国の崩壊による油断と、新自由主義で生き残っていくための余裕のなさから、日本の資本家には、そういった相互扶助の意識が欠如しているとする。ただ、佐藤氏は資本家個人の問題ではなくこれは構造の問題であり、執行権のある人間が解答を出していかなければならないと述べる。

佐藤氏が上記のように「共感力」(同朋意識)の重要性をあげているのは、具体的な政策ではないが、行政や企業、そして市民に大きな問題意識の枠組みを提示し、考え方の方向性を示しており、非常に感銘を受ける。

ウ小説について(3月、4月号)  

町田康氏の「夢のなかへ」がとても面白い。

はじめ、想像力豊かな主人公の頭の中での思考が中心に描かれ、また、一文が長く独特、という私にとってあまりなじみない文体に戸惑ったが、慣れると、主人公が相手とする第三者と主人公との実際の掛け合いと、続く主人公の思考がユーモアに溢れ面白く、流れるように、テンポ良く楽しみながら一気に読みすすめることができた。

また、連載小説ではあるが、一話で完結しており、途中から読みはじめても気にならないところもよい。

3、おわりに

最後に、『世界』や『文藝春秋』が格差や貧困問題についてどのように扱っているのかを調べてみた。

『世界』は、『中央公論』4月号と同様に同月号で「格差社会と増税論議」という特集を組んでいる。この特集では、様々な論文が掲載されており格差社会に対する批判として日本の経済体制、特に「小さな国家」や「新自由主義」といった日本の大きな進路が格差など根底にある問題だとする論文を多く取り上げている。

『文藝春秋』にいたっては、「格差」「貧困」「ワーキングプア」に関する特集は近年組まれていない。これらに関する論文は時に掲載されてはいるが、非常に少なく、また、特集が組まれていないことから、『中央公論』や『世界』のようにこの問題に相対的に重きをおいていない印象を受ける。

『世界』と『中央公論』が「格差」や「貧困」について特集を組んでいるが、二誌に掲載された各々の論文を比較してみると、『世界』の論者が格差問題を取り扱う際に「小さな国家」や「新自由主義」という日本の政治経済の大きな進路を問題として視点を置く論者が多く、一方、『中央公論』では、今何をすべきかといった具体的政策に重点をおく論文が多く取り上げられているように思う。

(間戸安奈2)

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